シャールスタイン・田中
その日は仕事が大分忙しく、家路についた頃はすっかり辺りは暗くなっていました。いつものようにバスを待っていると目の前にある闇の一部が剥がれて落ちてきました。ちょっと暗闇も暗すぎたのでしょう。それで余分な暗闇がちょうど古くなった土壁のように剥がれてきてしまったのだと思いました。
剥がれ落ちた闇の一部はしばらくうずくまっていましたが、やがてゆっくりと動き出しました。それは長くしなやかな尻尾と四本の足を持ち、音もなく歩き出しました。こちらを振り返った顔には闇の中で光る目を持っていて、つまり、猫なのでした。
ぼんやりとその様子をながめていると、猫が視線に気付きました。こちらに向かって歩きながら「やぁ、ぼくのことを見てるね?」と言いました。その声は暗闇のように澄みきって静かでした。
「ああ。でもいつもそうしてるのかい?」ぼくはちょっとうろたえながらもつとめて明るく応えました。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気になっていたからです。猫はそんなぼくの気持ちを見すかしたように少し笑いました。
猫はぼくの足下に座り、前足に付いた汚れを舐めとりながら「そうしてるって何のこと?」、今にして思えばぼくは試されていたのです。このとき別の答えをしていれば、もっと違ったことになっていたに違いありません。いや、止しましょう。とにかくぼくは、正直にこう言ってしまったのです。「君はさっき、暗闇の中から降りてきただろう?」
体をひねって背中の手入れに余念がないと見える猫はほんの一瞬だけ、体を堅くしました。「ふーん、そうか、仕方ないな。ちょっとこっちに来てみないか?面白いものがあるんだ」そう言いながら猫は歩き出していました。
ぼくは何故だか分かりませんが、それに従わなくてはならないような気がしていました。猫の後を追って、ぼくも歩き出しました。向かう先は狭い路地ばかりの寂しい感じのする一角です。そこにはぼくが友人たちと時折訪れる小さな居酒屋がありました。