シャールスタイン・田中
いつもバスに乗る時にはこの最後部の左端の席に座る。これといって理由はないが、とにかくそうすることにしているのだ。そして車窓の外を過ぎ行く景色を眺める。そう、今日もいつもの様にここに座り、途上にある民家の庭につながれている山羊が草を食むのを見ていたのだ。
誰か隣に座ったようだ。それがどんな人物であるのかに興味はなかったが、きつい化粧品のにおいがしたので思わずそちらを見てしまった。それは郊外を走るこのバスにふさわしくない、派手な格好の若い女だった。
山羊が次にどの足を動かすのかを見逃してしまった。山羊の歩き方を見極めようと思っていたのに。なんだか不愉快だ。この女にも少し不愉快な思いをさせてやろう。こういうすかした女にはどんなことを言ってやったら良いだろうか。
「あんたはとってもいい匂いがするな。自分でそいつを知っていたかね?」
これではまるでホールデン・コールフィールドだ。それに少し言い方を間違えればただの変態だと思われかねない。そうだ、これではどうだ。
「失礼だが、あんた猫を飼ってますか?」
そして絶妙な間合いで「なんだか醤油をかけた鰹節みたいな臭いがしたもんだから」と顔を逸らす。
しかし「醤油をかけた鰹節」と言ってしまってからその矛盾に気付いた。猫が食うのに醤油はかけないだろう。いまどき猫に鰹節をやるヤツもいないよな。それに「鰹節」と言うより「削り節」と言った方が正確ではないだろうか。まあいい。おや、今日は富士山が見える・・・
そろそろ目的の停留所だ。女は相変わらず澄ました顔つきで隣に座っている。「あの、すいませんが」。
「あたしが何を食べようと勝手でしょ?」思ってもみなかった反応にちょっとたじろいだが、そんなことに構ってここで降り損なうと大変だ。「は?そうじゃなくて、次で降りるんで通してくれませんか」
何故だか女は一緒にバスを降りてきた。停留所の目の前に馬糞が積まれて幸せそうに湯気を立てている。その山の上で遊ぶ雀。女は道の反対側に渡り、バスの時刻表を見つめている。
今日もいい天気だ。